人生百年時代といえども人の善意に触れる機会はいかほどか
ホテルに泊まればいい感じにエスコートしてもらえるのは、ひとえに社会の仕組み(もっと言えばお金の存在とそれを払う側と受け取る側の存在)があるからで、別にホテルマンが泊まる人(客)に対して人間的な尊敬の念を抱いてるわけでもなければ純粋な善意からそうしているわけでもないのは自明…
…なんですが、お金を受け取る側があまりに鍛えられてるため、支払う側の人間は本当に勘違いしてしまうところだと思います(私も危ない)
ビジネスマンにとって出張やら何やらで長距離移動やホテルに泊まることは特に珍しいことではなく、その費用は会社の経費として処理されるため本人は実質何も払わないままに質の高いサービスを受けることになります
さらに出世すれば使える額も増えてサービスの質もより一層高いものになり、頭を下げて言うことを聞く部下(聞かない人もいるが)がいればもう「勘違いリスク」がエベレスト級に高くなるわけです(それでも会長や社長を始めとする役員陣、得意先など頭を下げる先があればそのリスクを高尾山レベルまで下げられるところもありますが、やはり危険)
でも、どんなに才能があって並々ならぬ努力を重ねてきた人であっても、産まれた国や時代が違っていれば今のように「偉く」なるのは不可能で、現実には運も大いに絡んでくるため仮に「偉く」なっても『偉ぶるのは違うよなぁ…』と思うんですよねぇ
私ももちろん年長者は立てますし、分かりやすい社会的なパロメーターの高い人は(それを本人は褒めてほしいでしょうから)褒めますが、逆にそうでない人だからといって軽んじたりはしません
人生百年時代とは言うものの、人の純粋な善意や好意に触れる機会って…
いやはや…実は殆ど無い
大抵はお金だったり仕事だったり社交辞令だったり、打算的な企みだったり…
百年の人生を1本の映画とするなら、人の善意に触れる時間は恐らくワンシーンもなく、コマ送りにしたときに映るほんの数コマ程度ではないのでしょうか
そう考えると、日々のちょっとした出来事や時折触れる人々との人情の機微、子供や配偶者の存在を改めて有り難く感じる次第ですね